小さな個人美術館の旅(23)
ハーモ美術館
星 瑠璃子(エッセイスト)

 ニューヨーク近代美術館でアンリ・ルソーを見た時の衝撃は忘れられない。

 「眠るジプシーの女」の舞台は月夜の砂漠だった。背後にそびえたつ不思議な山と、微かに光る湖。どことも知れぬ砂漠の砂の上に黒人の女が杖を手にして静かに眠っていた。通りかかったライオンが一頭、まんまるな眼とたてがみを金色に輝かせ、しっぽをぴんとのばして女の匂いをかいでいる。赤、青、黄、ミドリ、オレンジ、女は細かい縦縞のワンピースを着て、その服も月光を受けて虹色に輝いている。かたわらにはマンドリンと素焼きの壷。ほかには何もない。なんと静かで、不思議な絵だったろう。画集では何度でも見て知っていたはずなのに、ピカソもマチスもほかの絵は消えてしまって、金縛りにあったように私はその前を一歩も離れられないのだった。これがルソー? これが「素朴派」? こんなに人を捉えて離さない、「素朴派」っていったい何? その後もずっと胸の中にあった思いを抱きながら、私はここにやってきたのである。

 パントル・ナイーフ、素朴派の絵を集めたハーモ美術館は諏訪湖のほとりにある。中央高速道を諏訪インターで下りて町を抜けると、目の前いっぱいに湖が広がっていた。いまごろはもう凍っているかしらと想像してやってきたのだが、温暖化の影響でここ十年以上湖が氷結することはなくなったそう。わずかにピンク味を帯びた乳白色の湖面は、雲が切れて日が射すと一瞬銀色に変わる。その銀色に輝く湖に沿って美術館へ入ってゆく道は、まるでこの美術館のためのプロムナードのようだ。真正面に南アルプス、そのもっと向こうには富士山まで見遥かせるという夢のようなロケーションである。

ハーモ美術館

 二階展示室にはアンドレ・ボーシャン、カミーユ・ボンボワ、ルイ・ヴィヴァンらフランスの素朴派たちが一堂に会していた。アメリカ人のモーゼスを除けばいずれも殆んど同時代のパリで描き、しかもお互いだれも知り合いじゃなかったという不思議な人たちだ。流れのほとりの草花をまるで祝の花束のように盛り上げて描いたボーシャンの「花と木」や、水に落した麦わら帽子を追いかけてゆく女の子たちを描くボンボワの「池の中の帽子」など、いずれもこれこそが自分の愛するものだという確信に満ち、喜びにあふれて描いている様子が眼に見えるような作品ばかりだ。

 そしてわがルソーはといえば、三階の小展示室にこちらは一人でひっそりと静まりかえっていた。小品ばかり四点。といっても世界中に二百点しかないルソー作品なのである。「眠るジプシー女」のような驚きはないものの、他の画家たちとはやっぱり何かが違っていた。それを何といったらいいのか。

 ところで「素朴派」という名前は、ドイツの収集家であり批評家でもあったヴィルヘルム・ウーデが今世紀初頭に登場した何人かの素人画家に与えた名称だ。美術史の流れの外にあって、自分の眼で見た世界をまるで子供のように「素朴に」描き出したということからこの名前がついた。いうなれば、みんなが「日曜画家」だった。園芸家だったボーシャン、サーカスの仲間に加わって田舎を巡業したり、土方をやったりしていたボンボワ、郵便局員だったヴィヴァン、七十五歳で描き始めたモーゼスは農家の主婦だったし、ルソーも本格的に制作に取り組むようになったのは「税官吏」を定年退職してからだった。彼らはどんなグループにも属さず、たった一人でこつこつと自分の世界を描いた。ルソーなどは、ピカソらが担ぎ出すまでは、殆んど揶揄と嘲笑の対象以外のなにものでもなかったため、その作品の殆んどが失われてしまった。あの「眠るジプシー女」ですら、長年の謎の時間を経てようやく姿を表したのである。しかし私は、そんな中にあっても超然とした晩年のルソーが、ピカソに言ったという言葉が好きだ。「現在、本当に優れた画家は君と僕のふたりしかいないね。もっとも君は様式的にはエジプト風で、僕は現代風だけどね」。

 ハーモ美術館は、はじめ自動制御装置の会社「ハーモ」を経営する濱富夫氏のコレクションを中心に開館するはずだった。ひた走ってきた忙しい会社の仕事の合間に少しずつ集めていた濱氏の作品は、十分それに見合うだけのものがあったのである。けれども、館長に内定していた関たか子さんから「待った」がかかった。「小さな美術館は、特色がなければ大美術館にかなわない。一つの視点、思想で収集した作品が絶対に必要です」と彼女はいい、それが素朴派の美術館の誕生につながったという。八年前のことである。

ハーモ美術館館長・関たか子さん

 「間違いじゃなかったな、と思うんですよ」

 美しい館長はきらきらした眼でこちらを見つめながら言う。館長といっても関さんは、美術を専門に勉強したわけではない。証券会社勤務だった頃に初めて買った絵が熊谷守一だった。それから一点また一点と好きな絵を売り買いする「風呂敷画商」を始め、濱氏と出会った。

 「素朴派って結局何なんでしょうね」と問うと、関さんはまた素敵な笑いで答えた。

 「定義なんて、じつはどうでもいいことなんじゃないでしょうか。来てくださった方が、ああ、こんな絵もあったのかと何かを感じて下されば、私たちはそれで満足なんです。」

 一番大切なのはハーモニーだと、濱氏は会社の名を「ハーモ」とつけたそうだが、それがそのまま美術館の名前にもなった。湖に沿って車を走らせながら、ルソーと「素朴派」の違いを究明せずにはおかない、と意気込んでやってきた自分を何やら滑稽に感じながら、私は思った。「ほんとにここは、自然も人も、素朴派の絵のようだな」

 住 所 長野県諏訪郡下諏訪町10616─540 TEL 0266-28-3636
 交 通 中央線下諏訪駅より徒歩18分 又は 中央自動車道諏訪インターより15分
 休館日 年中無休

星 瑠璃子(ほし・るりこ)

 東京生まれ。日本女子大学文学部国文学科卒業後,河出書房を経て,学習研究社入社。文芸誌「フェミナ」編集長など文学、美術分野で活躍。93年独立してワークショップR&Rを主宰し執筆活動を始める。著書に『桜楓の百人』など。

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