小さな個人美術館の旅(24)
平野政吉美術館
星 瑠璃子(エッセイスト)

 山形県酒田で用事をすませ、各駅停車の羽越本線に乗った。急行に乗りそこねたのだ。地図で見ればそんなに遠いとも思えない酒田―秋田間はそれでもけっこう時間がかかる。吹浦(ふくら)、女鹿〈めが)、小砂川〈こさがわ〉、象潟(きさかた)、仁賀保(にかほ)……。なんて美しい響きだろうと指折り数えていた駅名も、やがてうっとりと眠ってしまうと、どこがどこやらわからなくなった。けれども時々目を覚ませば、いつも窓外には遠くに近くに青い海が広がっていた。藤田嗣治もこんなふうにしてこの裏日本の町にやってきたのだろうか。彼が秋田へ来て今世紀最大といわれる壁画を描いたのは1937年の2月から3月にかけてというから、低くたれこめた空から絶え間なく雪が舞い下り、辺りは一面の雪景色だったろう。鉛色の海は白い波頭を牙のように光らせていただろうか。

 東北新幹線小町号が開通して、秋田に来るのもずいぶん楽になった。まっすぐ来れば東京―秋田間は四時間で着く。それ以前の駅前の様子を私はあまりよく知らないが、いまの秋田は明るく活気に満ちた大都会。駅前のメインストリートを堀にそってまっすぐ進めば、久保田城跡の内堀ぎわにあるのが藤田嗣治の作品で知られる平野政吉美術館だ。

平野政吉美術館

 大壁画「秋田の行事」は、他の藤田作品とともに二階展示室にあった。藤田独特の、あの美しい乳白色の地に赤を多用して描かれた冬の竿灯(かんとう)、ぼんてん、七夕、秋祭り。藤田がこんなに鮮やかな赤を使っているのを私は初めて見た。二百人を越す大群衆――竿灯の竿を操る若者が、仮屋台で踊る芸者衆が、「かまくら」で遊ぶ女の子や箱ぞりで駆ける男の子たちが、広場で喧嘩している秋田犬までが流麗なタッチで一分の狂いもなく描かれて躍動する大画面である。

 「下絵は全く描かず、殆どぶっつけ本番で描いたのです。フジタは大変なデッサン力の持ち主でしたからね。描くときは一日十時間ぐらい、ぶっとおしで描いた。余った絵具はホワイトー本、赤二本だけだったそうです」と、事務局長の平野誠氏が言う。氏はこの美術館の創始者で秋田の大地主、平野政吉氏の長男である。故政吉はコレクターとしても知られていたが、藤田にほれこみ、ついに秋田に招んでこの大壁画を描かせた。東京の画材屋、文房堂から主人が呼ばれ、昔は潘米を貯蔵した平野家の土蔵を改造して大キャンバスが貼られていったという。

 藤田嗣治は1886年東京牛込生まれだ。子どもの時から絵が好きで、十二、三歳の頃には画家になって身を立てたいと決心し父親に手紙を書いた。切手を貼ってわざわざポストまで出しにいって夕方戻ってくると、消印をつけた手紙と父親が帰っていて、やがて呼ばれた。叱られるものと覚悟して前へでると、その時分には不似合いの五十円という大金を黙って奉書紙に包んで渡してくれ、「下がってよし」と言ったという父は、後の陸軍軍医総監、藤田嗣章である。その晩眠れぬほど喜んだ藤田は翌朝神田へ走り、かねてより夢見ていた「本物の」絵具箱や絵具や三脚やイーゼルを買い込んで家へ飛んで帰ったという。さらにお茶の水の付属中学に入ると、パリへ行って勉強するにはまずフランス語だと、暁星の夜学に通って勉強を始めた。中学五年の時、イギリス人の教師が藤田の英語がフランス訛なのに気付き「お前はフランス語を知っているのか」と尋ねたところ、ペラぺラとフランス語で答えてクラスメイトの度胆を抜いたというそんな少年だった藤田が渡仏するのは、上野の美術学校〈現東京芸大)を卒業した翌年、1913年のことである。

 日本ではまだセザンヌもゴッホもゴーギャンもルノアールも知らず、わずかに美術学校で黒田清輝ら教授からモネとかシスレーとかピサロなどいわゆる印象派の名前ぐらいを聞き覚えていた極東の一青年が、いきなりピカソやドラン、モジリアーニ、アンリ・ルソーらのなかに身を投じたのであった。「絵画は実にかくまで自由でなければならないのか」とは当時の藤田の述懐である。

 その後は、「コテコテと絵具を盛り上げた」当時流行の例えばセゴンザック流の手法に対しては薄塗りの「つるつるの絵」を、マチスの華麗な色彩に対しては「白黒」(黒こそは黒田清輝が決して使ってはならぬとパレットから除かせた色だった!)を、大刷毛で描くヴァン・ドンゲンのダイナミックに対しては小さなめんそう筆で輪郭線を描くといった徹底した自分流を押し通し、留学六年目にしてサロン・ドートンヌの会員、翌年には審査員となり、爆発的人気を得てエコール・ド・パリの有力メンバーとして世界的に名を馳せてゆく。

 いまこの美術館で見る有名な「眠れる女」にも、壁画「秋田の行事」にも藤田のその特色はあますところなく示され、苦渋の跡ひとつない画面は何ともほれぼれとする見事さである。ところが最近、藤田の絵を「知らぬ」ものが多いという。日本が誇ったあのフジタが、あの美しい女たちが、もし少しずつでも忘れられていくとしたらそれは何故か。それは例えば、藤田の「画集」が極端に少ないからではあるまいか。日動画廊のカタログなどを除けば、『藤田嗣治画集』としては1929年に朝日新聞社から出されたものだけだし、「美術全集」に収められたものとしては61年の河出書房版ぐらいしか思い出せないのは一体どうしたことか。最近、著作権というものがやかましくいわれ、それは結構なことなのだが、遺族が画家を偏愛するあまり画集の刊行を許さず、展覧会の開催にも口出しをするとすれば、それがどういうことになるのか。藤田の例はそれを語っているようにも思え、北国の美術館でひっそりと作品を眺めながら、私は少し悲しくなった。

 戦後、藤田はアメリカ、イギリスを経てフランスに戻るとフランス国籍をとってパリに永住、八十一歳、チューリッヒの病院で没した。二十七歳でパリに渡ってからの五十四年間、その殆どをパリで過ごし、日本にいたのは戦争をはさんだわずか十数年に過ぎない。

 住 所 秋田市千秋明徳町3−7  TEL 0188−33−5809
 交 通 秋田駅下車徒歩10分
 休館日 火曜日(祝日の場合はその翌日)と年末年始

星 瑠璃子(ほし・るりこ)

 東京生まれ。日本女子大学文学部国文学科卒業後,河出書房を経て,学習研究社入社。文芸誌「フェミナ」編集長など文学、美術分野で活躍。93年独立してワークショップR&Rを主宰し執筆活動を始める。著書に『桜楓の百人』など。

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